命の名前




そこはとても熱かった。
皮膚を焼く炎の熱さと、全身を襲う痛み。
耳鳴りのように響く怒号は、悲鳴と銃声へと姿を変えて鼓膜を叩く。
ともすればくず折れてしまいそうな膝を奮い立たせ、うな垂れてしまいそうな拳を握り締め、意地と意思の力でだけでその氷の大地を踏み締めた。
伸ばした腕をすり抜ける悲鳴。
ただ思いだけが先走っていた。
鼻を突く硝煙の匂いと煙で視界はとても悪い。
側に倒れていく人の影を横目に、ただひたすらに、血が迸りそうな程声を上げて叫び続けたのは、助けたい命の名前。

「……エ…ー、ス…」

ぽつりと口にした瞬間、ルフィは夜の闇の中で眼を開けた。



一回、二回と瞬きをする。
夢の底から覚醒する浮遊感に気付くと、伸ばしていた指先が少し震えた。
今、耳を叩くのは隣のハンモックで眠る仲間たちの寝息と夜の海の音。
見渡す必要もない、安心するサニーの匂い、規則正しく揺れ動く波の力と、部屋を満たす仲間の体温。
真ん中のハンモックで横になっていたルフィは、それを噛み締めるように感じてから静かに身体を起こして、ひとつ息を吐いた。
じっとりと身体が寝汗で濡れている。
それを不快だと思うより先に、呼応するように胸の傷が痛みとも疼きとも取れない声で泣いた。
思わず胸元に手を当てて、その声を押し留める。
表情ひとつ変えず、その痛みをまるで隣人のようにそっと撫で擦って、ルフィはもう一度部屋を見渡した。
夜の闇に満たされた柔らかい寝室。
その優しさに唇の端で微笑んで、ルフィはハンモックから音を立てないように飛び降りた。



その夜、不寝番を言い付かったのはゾロだった。
薄い月と無数の星が瞬く夜空の下、真っ暗な海の向こうを眺め続けるのは退屈極まりない。
腕に持ったダンベルを上げ下げする鍛錬もそろそろ落ち着いてきたところで、ひとつ大きく欠伸をする。
ほぐすように何度か首を左右に曲げていると、ふと船室の扉が開いて、薄い光が漏れているのが見えた。
それに気付いたときには、男部屋から出てきたの船長の姿を視界の端に捉えて、ゾロは身体を起こす。

「ルフィ?どうした?」

見張り台からの声に気付いて、黒髪を夜風に遊ばせたルフィがゾロを振り仰ぐ。
その瞬間の視線に一瞬ゾロは息を飲んだ。
黒いその視線は、底の見えない濁った闇を覗き込んだときのような感覚が背筋を這う。
こんな眼をする男だったろうか、と。
しかし、ゾロがそう思い至ったときには、ルフィはいつもの笑顔で高らかにゾロの名前を口にした。

「ゾロぉっ」

同時に大きく振りかぶって伸ばした腕が見張り台の端を掴む。
ルフィは軽やかに甲板から見張り台まで跳ぶと、危なげもなく見張り台の縁へ降り立った。
軽業師のような動きに驚くでもなく呆れるでもなく、ただゾロはルフィの様子の違いを訝しんだ。

「どうしたんだ、こんな夜中に」
「んー、なんかな、眼ェ醒めた」

何の違和感もなく、自然とゾロは縁に立つルフィの腕を取り、その身体を抱き寄せた。
ルフィもまたそれに疑問などは感じることもなく、当たり前という風にゾロの胸元に収まった。
一緒に見張り台に腰を下ろし、進行方向に広がる星と闇の海を眺める。
ゾロの腕の中の熱に、先ほど感じた不安が綺麗にほどけていくようだった。

「夢でも見たのか?」
「うーん?…うん、忘れた」

しかし、軽口で返すルフィの声に、言い知れぬ何かを感じ取る。
忘れたと口にするが、多分、ゾロの指摘通りなのだろうと。
ルフィの身体に回していた腕が、微かに力が入る。
無意識に胸元の傷を意識する。
その傷は熱を持って応えるようにゾロの体温を押し返した。

「なぁ、ゾロ」
「なんだ?」

ふと、ルフィが口を開いた。
その視線はまっすぐに前を向いて、夜の闇を見据えていた。

「ゾロはさ、もうどこにも行かないでくれよ」
「……どこにも行かねぇよ」

そう、耳元で囁くと、ルフィの身体を抱え直してこちらを向かせる。

「もう、あんな思いするのはまっぴらだ。頼まれたって離れてやらねぇぞ」
「そうだな」

隻眼となって更に鋭くなった視線で船長を射抜く。
その強い言葉に満足したかのようにルフィは笑って、ゾロの左眼を優しく撫でた。

「ならもう寝ろ。いてやるから。…下まで戻るか?」
「ここがいい」
「判った」
「ししししし」

短い応答の後、ルフィは静かに眼を閉じた。
ゾロの服の裾を掴んだまま、寝息を立て始めるルフィを見守って、ゾロは視線を船の先に戻す。
何も言わない何も返さない沈黙を守ったままの空と海は、ただそこにあって眺めているだけだった。
静かな夜である。
だからこそ、ルフィの体温が明確に側に感じられ、そして腹の内が覗いて見えたのだろう。
こいつはこんなことを口に出したりはしない。
素直に態度に出すことを得意としているくせに、肝心なことは判りにくい。
その腹の内を感じ取る術だけは磨いてきたつもりだった。

ふとルフィの胸の傷を見る。
そこにある確かな痛みを思ってゾロは眉根を顰めた。
忘れたと語る夢のうちは、恐らくは兄のことだろう。
あれから二年。
まだ再会して間もないが、時折ルフィが夜に眼を醒ますことをゾロは知っていた。
彼から明確にアクションがあるなら、それを受け止める覚悟もあった。
しかし、今までそのようなことがなかったから様子を見ていたのは事実だった。
だからこそ、今日初めて、ルフィが安心するために体温を求めてきたのだとしたら、ゾロは不寝番をしていて正解だったのかもしれない。

伏せられたルフィの目元の睫が少し震えた気がした。
寝顔を見守った後、ゾロは前方の闇を見据える。

この男は仲間が増えるたびに背負っていくものを増やしていった。
それを平然とやってのけた。
自分がこの場所にいるためには、どんな手段を使ってでも命を懸けてその仲間を背負ってきた。
それがはじめて、仲間の為ではなく自分のエゴだけで助けに行った兄を、目の前で失ったのだ。
半生を共に過ごし、約束と共に別れ、一度は笑顔で向かい合い、命を懸けて助けに走ったというのに、自らの腹を貫かれる代わりとなって立ちはだかった兄。
流れ出る命を目の前にして、消えそうな言葉を耳にして、失い行く体温をその全身で浴びた。
それがどれほどのことだったのか、想像するしか術はない。

大切な人を失う痛みはゾロも良く知っていた。
だからといって、ルフィに何か言ってやれるはずもなかった。
その痛みを分かち合えるとは思っていない。
分かち合う必要もない。
この痛みはルフィ自身だけが持っていればいい。
忘れることはない。
それでいい。

ただ、側にいるだけで、その重さを受け止められるようになるというのなら、いくらでもこの腕を差し出そうと思う。
夜の闇に一度だけ目配せをして、ゾロは腕の中で寝息を立てている船長の細い身体を抱きしめた。


end.



ついこういうのを書きたくなるんです…。
自分にシリアス書かせたらひたすらに暗い痛いもやぁ…っみたいなのが多くて…。
ちょっと吐き出してしまった…。
お付き合い頂いた方ありがとうございました。
お粗末さまでした!

2011/04/12