スカーレット:4


日が昇っても、アンを取り巻く事態は何も変わらなかった。
昨夜のことなど、まるでなかったかのように、いつもと同じ日常。
ただ、それは仕事中だけで、それ以外では、あの青い眼がアンの視線を捕らえることはなかった。
アンも、マルコにどういう顔をして会えばいいのか判らなかったので、腫れ物に触るように事態を敬遠していたのも事実だ。
それなのに、仕事のことになると、戸惑うアンなど少しも気にかけていないように、マルコはまったく何もなかったかのように普通にアンと話し、対応し、仕事に戻る。
そういう大人な態度が、正直癪に障って、事態を好転させる機会を完全に逃しているのもまた事実だった。

「…どうしよ…」

まったくなすすべもなく、一日が過ぎ去り、途方にくれたアンは、船の縁まで行って夜の海を眺めた。
いくつもの星の下で、夜風がアンの帽子をふわりと撫でる。

「ごめん」

小さく独り言を吐き出してみる。
誰もいなければ、こんなにも簡単に言葉が紡げるというのに、なぜいざというときには自分の口は動かないのだろう。

「…ごめん」

しかし、これでいいのだろうか。この言葉で果たして正しいのだろうか。
もっとふさわしい言葉があるような気もする。
それでなくても、何をどう伝えれば良いのか、今のアンには判らなかった。

「……どうしよ…」

同じ言葉だけが、ぐるぐると渦を巻く。
何度目か判らないため息を海に落として、アンはうなだれる。
そんな折、ふと背後から声がかかった。

「よう、マルコはここじゃねぇか?」

よく通る声でアンを呼んだのは、着崩した着物を夜風に遊ばせて、甲板からこちらへ向かってくるイゾウ。

「あ……うぅん、見てない」
「なんだ珍しいな、一緒じゃないなんて」
「…そ、そんなに一緒にいるわけじゃないよ」
「そうか?気付けば後ろをついて歩いてるじゃねぇか」

まるで飼っている犬の話でもするようにイゾウが笑う。

「そんなことないって」

つられてアンも笑った。
その笑みも、どことなくぎこちない。
上手く笑えるはずがないのだ。

「まぁ、急ぎじゃねぇから、こっちで探してみるよ」
「…うん」

そのままイゾウを見送ろうとしたアンの表情は暗い。
今はマルコの名前を聞くだけでも全身が反応するのだから。
その声音を拾ってか、イゾウは半瞬の後、振り返った。

「なんだ、どうした、喧嘩でもしたのか?」
「……そんなとこ」
「犬も食わないって奴か。さっさと謝っちまえ」
「……う…うん…」
「なんだよ、自覚なしか」
「え…?」

赤く縁取られた、切れ長の視線がアンを射抜いた。

「あいつ、お前には本当に甘いからな。あんまり甘えてると、愛想つかされるぞ」
「……っ」

イゾウの鋭利な言葉にアンは俯いていた顔を上げる。
その声にはどこか柔らかな棘が含まれているようだった。

「いつまでも子供のお守りは飽きちまうぜ?」

紅を引いた唇の端が持ち上がる。
嘲笑とも、挑発とも取れるその物言いに、アンは言い返せなかった。
そして、喉の奥で転がした言葉を飲み込んだ瞬間、全身に広がる羞恥心。
完全に図星だった。
ただ、優しさに甘えていただけ。
マルコの気持ちを受け止めるだけの勇気も覚悟もなく、ただいたずらに自分の気持ちをぶつけていた。
好き、というたった一言の言葉の意味は、どれだけの重みを持っていたのか。
その声に、その腕に、その優しさに甘えて、傷つけて、逃げ出した。
本当にただのわがままな子供のようだと、自嘲する。
そして、この厚顔無恥な己が恥ずかしくなった。
いても立ってもいられないくらいに。

「…あたし…ちょっと…」

背筋に這い上がる焦燥感に追い立てられる。
反論する言葉を完全に見失い、アンは逃げるようにイゾウに背を向けた。

「…ごめん…っ」

アンのブーツの音が甲板の上に響いた。
それが十分に過ぎ去ってから、イゾウはひとつ、ため息を吐く。

「…こんなもんで?」

その大きな刺青を背負った白い背中を見送って、イゾウは壁際に声を掛けた。

「さっすがイゾウさん、名女優だなー」

その角からはサッチがまるで悪戯を仕掛けた犯人のような顔をして甲板に姿を現した。

「誰が女優だ」

サッチのリーゼントに一撃を加えて、イゾウは吐き捨てた。

「二度とこんなことしねぇからな」
「おーおー、判ってるよ」

大して気持ちの篭らない声でサッチは返す。

「…ったく…なんだって俺がこんなこと…」
「こういう場合は第三者が言った方が効果的なんだよ」

俺よりな、とサッチは口の端だけで笑う。
その表情を横目に捕らえて、イゾウは言呆れたように言った。

「嫌われない程度にやれとは言ったがな……お前、本当にこれでいいのか?」
「なぁにが?いいよー、サッチお兄さんはアンちゃんの味方だから」
「ま、好きにすりゃぁいいけどな」

イゾウは苦笑いを隠そうともせず、素早く袂からキセル入れを取り出すと、慣れた手つきで火をつけ、その紫煙を優雅に吸い込んだ。
サッチはそれを歪んだ表情で眺めた後、イゾウが吐き出した煙の跡を視線で追う。
挑発的な紫煙がサッチの鼻先をくすぐった。
ふ、っと妖艶な唇が最後の一滴を吐き出すと、、サッチはおもむろにそのキセルを奪い取る。
そしてその紫煙を存分に肺に送り込む。
紙巻煙草とは違う噎せ返るような味が、身体中に充満した。
そして苦虫を噛み潰したような顔でイゾウに笑ってみせ、

「ほんと、何やってんだろうなぁ、オレ」

ため息と一緒に吐き出した。




だぁぁ、続いてしまった…!
すみません、ほんと、次で…次で終わります…!!
もちょっとだけお付き合いください…!

2010/09/05